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体罰は何故ダメか 「目的と目標・手段のはき違え」

サッカー部コーチ 投稿動画で発覚、解雇 埼玉の高校
https://mainichi.jp/articles/20170614/ddm/012/040/053000c


●なぜ体罰は特別視されるのか

日本では、家庭内暴力は許されない行為として扱われるのに、体罰となると何故か評価が割れてしまう。
また同様に、上司から部下への"パワハラ"や生徒間での"いじめ"は「無くなるべきもの」と認識されているのに、体罰に関しては「必要」「これくらい普通」という意見が出る。

こうして見ると、「教育の場で師から生徒に振るわれる教育指導の中では暴力行為もやむ無し」という考え方が日本の体罰許容派にはあるのかもしれない。


確かに、教師と言えど人間であり、生徒は皆が規則に従順で道徳的人間という訳ではない。
故に何度口頭での指導を繰り返しても改善されず、それどころか暴力や言葉で反抗してきたら、感情的になって手が出てしまうのも仕方がないかなとは思う。同情の意味で。


しかし、教育的指導という名目にかこつけて体罰を行うのは単なる暴力行為でしかなく、暴力はさらなる暴力を生む。
暴力を用いた指導が正しいだなんて、そんな事を認めてしまってよいのだろうか?


●目的と目標・手段

スポーツ(=sport)とは、「楽しみ」や「遊ぶ」といった"disport"という単語が由来した言葉であるように本来楽しむ為のモノである。

オフサイドのような制約を課すのも、筋肉増強剤などの違法薬物使用が許されないのも、勝敗を競い合うのも、スポーツで楽しむ為の手段である。
(ドーピングが勝敗を左右したり選手の健康状態を脅かしている状態で、スポーツを見る&する事を純粋に楽しめる人間はいないだろう。)


ところが現実はどうだろう。
投げる・打つ・蹴る・捕る・走る……
そんな単純な行為が楽しくて、自ら体育会系の部活に入部したはずが、いつのまにか"やらされている感覚"を学生時代に味わったことがあるのではないか?

顧問教師に高圧的な態度で抽象的な指示を与えられ、楽しさを味わえなくなり辞めたくなった経験があるのではないか?

25m泳ぐ事や逆上がりする事など目標達成する事が目的になってしまい、上手くできない自分の中で劣等感や運動への嫌悪感が育っていった経験があるのではないか?


残念ながら、体育・部活動・習い事において本来の目的を忘れ去ったまま指導が行われているケースは少なくないと思う。
私は実際に経験したし、"やらされている感"を強く感じる中で必死にトレーニングした所で実力はさほど伸びなかった。
楽しくて仕方がない=「好きこそものの上手なれ」状態で自発的に積む努力、これが全く足りていなかった事が理由だろうと、後悔している。






『楽しむ』という目的を置き去りにした結果、過度な勝利至上主義環境や得手不得手を個性として認められない環境が出来上がってしまう。

そんな環境で折れた人間は運動嫌い・スポーツ嫌いに育つ
無事に耐え抜いた人間が「アレのおかげで今の自分がある」と自身の体験を正当化および肯定し、子育てや人材育成の際に自身が経験した事と同じやり方で伝承する可能性も考えられる。

一体こんな負の連鎖で誰が得をするんだろうか?
戸塚ヨットスクールや桜宮高校の一件のような、誰かが死ぬまで止まらないイカれたチキンレースに一体何の意味があるのだろうか?


指導における体罰は教育でもなんでもなく、指導力不足と手段の目的化から起因した只の暴力行為。
もちろん法律的にアウトであるし、倫理的な観点から言ってもどうかしていると言えるだろう。

総合的に見て「人としてあり得ない事行為である」としか私は思えない。
そして、やっていい事と悪い事の分別もつかない人間に指導などできっこない。






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