辛くもJ1残留を達成した京都サンガF.C.。
地元紙、京都新聞での総括記事では肯定的な論調で3日に渡る総括記事が掲載されていたが、はたして今シーズンの歩みは本当に歓迎できるものだったのだろうか…?
そこで、数回に渡り、2022年シーズンの振り返りをここにまとめる。
初回となる今回はプロローグ編である。(10月末にTwitterで先走って垂れ流してしまったものを一部加筆・修正したものになる。一部内容はほぼ同一である。)
個人的な京都サンガのサッカーへの仮説。
— n (@nks137) 2022年10月29日
それは一言で言ってしまえば、
『曺貴裁のサッカー≒京セラフィロソフィー』
『サンガのサッカー≒京セラフィロソフィー』
『曺貴裁のサッカー=サンガのサッカー』
であるということ。
京都のサッカーとは即ち京セラのサッカーである。
2022年の京都について触れる前に、私が京都を見始めた2000年台後半からの歴史を振り返り、そしてクラブ側の視点から考えたもの。曺貴裁京都について考える前には、まず情報整理をしなければ理解度は高まらない。よって改めてここに置いておく。
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はじめに
J1京都サンガ・曺監督、来季続投へ チームに向き合う姿勢評価|スポーツ|地域のニュース|京都新聞
>次節の最終節でJ1残留の可否が決まるが、選手たちのモチベーションを高く保ち、サンガや京都の未来に真剣に向き合う姿勢を評価したという
>クラブ幹部は「監督には選手の心を奮い立たせる力があり、監督自身も成長したいと常に思っている。サンガを進化させるのは彼しかいない」としている。
最初に断っておくと、私個人のスタンスとしては曺貴裁以上の指揮官を招聘できるのであれば機を見て交代すれば良い。ここで言う「以上」とは、私個人が考える京都サンガの理想のサッカー像に対して、より適切な人選であるかどうかという話である。そしてその機はもう既に迎えてしまっている。
長期政権=良い訳では無い。良い監督だから長期政権になるのだ。継続性とは監督が代わっても変わらないモノであり、受け継がれるもの。人を代えない事が継続性・連続性ではない。
監督も、所詮はクラブの戦略に組み込まれる歯車の1つにしか過ぎないことを適切に理解する必要がある。(まあこれをできる・できない以前に、理解しようとしない人がどのクラブも多い気がします…)
さて、前置きはこれくらいにする。
【ニュースリリース】
— 京都サンガF.C. (@sangafc) 2022年11月19日
曺貴裁監督 契約更新のお知らせhttps://t.co/ydDRajtKjW#sanga #京都サンガ pic.twitter.com/uEiSGAQ6Xi
京セラ"フットボール"フィロソフィー
個人的な今の京都サンガのサッカーへの仮説。
それは一言で言ってしまえば、『曺貴裁のサッカー≒京セラフィロソフィー』『サンガのサッカー≒京セラフィロソフィー』『曺貴裁のサッカー=サンガのサッカー』であるということ。
京都のサッカーとは、即ち京セラフィロソフィーである。
これだけではわかりづらいので、より噛み砕くと、具体的には大きく二つの要素があると考えている。
その①:ハードワークが基本方針であり、それ以上に緻密な戦略及び評価基準、そして評価できるだけのスキルを、強化部門が有していない。
その②:具体的なサッカースタイルの構築については、その時々の監督にほぼ全権を委任している。
その①は、更に以下の3つに細分化される。
ア:ハードワークが基本方針
イ:緻密な戦略及び評価基準の欠如
ウ:適切に判断できるスキルの欠如
まず、アについては、代表例が「闘争心を持ち、フェアプレーに徹し、最後まで全力でプレーする」と2015年途中に定めた"サンガバリュー"である。(引用元:2015年サポーターズカンファレンス議事録より)
これはクラブ内部で京都のサッカーとは何かを定めた際に、わかりやすく共有できる様、山中 前社長が一文にまとめて言語化したもの。(山中社長であることは細川前強化本部長より2016年に聞き取り)
この「闘争心を持ち、フェアプレーに徹し、最後まで全力でプレーする」という言葉は、山中氏が一から考えて創ったものではない。
では誰が考えたのか?
その起源こそが稲盛名誉会長であり、この言葉は京セラフィロソフィーの一環なのである。
また、2015年開催の説明会に於いては、サンガバリューについて触れる前に、「私が就任して一番驚いたのが、どんなサッカーしたいのか言えなかった事。今季の順位になった一番の大きな原因は、組織として一貫性が図れていなかった事。結果として統一したチームを作り上げる事が出来なかった」との発言がある。
苦戦のJ2京都「自分たちのサッカー」確立で常勝軍団目指す― スポニチ Sponichi Annex サッカー
答えの一端を今季途中から就任した山中大輔社長(57)が明かしてくれた。就任前は知識はもとより、サッカー観戦もできないほど多忙なサラリーマン生活を送っていたという。そんな中、クラブの社員に「このクラブのスタイルは何ですか?」と問いただした。誰も明確な答えを挙げられなかった。
実は、同様の発言をこれよりもっと前にした人物が居る。それは梅本 元社長である。
(※現職の伊藤社長から遡って3代前。伊藤→山中→今井→梅本)
梅本氏は、盛和塾の会報誌への寄稿にあたり、社長に就任した経緯のほか、サンガのサッカーについて大変興味深い記述を残している。
勝手ながら一部引用する。
・加藤さん※が来られて、「京都サンガはいったい何がしたいのですか」と言われても私たちはピンとこなかった ※注釈:加藤久氏
・イタリアンのシェフ(監督)を連れてきました。そのシェフが好む材料を揃えました。それが、選手です
・ちょっとうまくいったけども駄目になったら「オーナー、次は中華に変えます」と言って中華のシェフを連れてきます
・それでまた駄目だとなると今度は和食
・今までこうしたことを京都サンガはやってきたので加藤さんから「いったい何がしたいのですか」と聞かれたのです
・つまり、京都サンガはどういうチームをつくろうとしているのかを、まず考えなければならなかったのです
・よく名誉会長が言われますが「チンタラチンタラと後ろの方でボール回しをするな」
・お客さまはうちの選手が勢いよく攻めてゴールを脅かすところに感動するのであって、ボール回しを見ていても「なにをしとんのや」となります
・京都サンガのチームカラーは、まず「ハードワークを信条とする」ことです
・やはり闘争心が非常に重要です。そして、「フェアプレーの精神を貫くこと」です
あら不思議。2015年に語られた事と極めて似た話が。
そして曺貴裁率いる京都がこの2年繰り広げるサッカーと通ずるものまで語られている。
2009年に語られた失敗と今後の方針。
しかし、6年後に別の人物から再び似た内容の話が繰り返される。
これは、ハードワークという基本方針以上に緻密な戦略を立てられなかった証拠の一つであり、体制(人)が変われば方針が受け継がれない、極めて属人的なクラブの体質が表れたエピソードと言える。
こうなると、2016年の布部監督の招聘についても、新たな一面が浮かぶ。
・評価表で上位を獲得し、現場からの人望の高さ、現柏レイソルの礎を築いたチームの一員であった点、サッカー界での現場での指導能力が高く、将来性が豊かである、加えて熱血漢、情熱が決め手
・本当に、京都を強くしたい、と思ってくれているのが、布部監督でした
この時、J2残留→昇格PO進出へ導いた石丸監督よりも、トップチームでの監督未経験の布部氏の方が評価が高いとする話に対して、
『小島が連れてきた布部ありきの採点表ではないか』と思われた方は多かったと思われる。私もその一人であった。でなければ説明がつかないからだ。 しかし…?
「ハードワークを信条とする」という観点に絞って言えば、ポジションを崩さずバランスを保った4-4-2で堅いサッカーをする石丸氏と比較すれば…
闘莉王・オリスのツインタワー目掛けてボールを当てて8人が奔走する。時にピッチ上に6人ほどFWの選手を送り込む布部監督の方が、理知的ではなく、やけくそでも、闘争心に溢れている様に見えるかもしれない。
つまり、お友達人事と揶揄された小島チーフスカウト(役職名は当時)との関係、闘莉王獲得及び起用への姿勢に加えて、
純粋にサッカーだけを切り取っても『布部監督>石丸監督』だと判断してしまうだけの評価基準とスキルしか有していなかった可能性があることに、今季の曺貴裁監督の振る舞いとクラブを見て、私は気付いてしまったのだ。
繰り返しになるが、布部監督の招聘理由と、内容も結果も低迷にしたにも関わらず更迭しなかった理由について、「加えて熱血漢、情熱が決め手」「本当に、京都を強くしたい、と思ってくれているのが、布部監督」「雰囲気は良い」と語られていた。
京都、布部監督が来季続投 チーム雰囲気など評価 - J2 : 日刊スポーツ
J2に来ないで 雰囲気が評価される時はだいたい評価する部分がない時だよ
— 来ないでJ2 (@dontcomej2) 2017年10月15日
それだけで評価した訳ではないと理解してはいるが、「選手たちのモチベーションを高く保ち、サンガや京都の未来に真剣に向き合う姿勢を評価」と書かれた今回の京都新聞の記事だけを見ると、悪夢の布部体制時から本質的には何も進歩していないのではないか?という恐怖心に苛まれる。
ここまで①のアとイについて触れたので、最後にウについて触れる。
近年の京都サンガで強化部門の要職に就いた人物は、祖母井氏(GM)・高間氏(TD)・細川氏(強化本部長)・野口氏(強化部長)・小島氏(強化部長)・山道氏(強化部長)・加藤氏(強化育成本部長→R4年、組織変更に伴い強化アカデミー本部長へ改称)・安藤氏(強化部長代理)の8名。
この中でトップチームで監督経験があるのは加藤氏のみ。 他クラブで強化部門の要職に務めた後に就任したのは祖母井氏・山道氏・加藤氏のみだ。
中長期的な指針となるサッカースタイルの構築、評価基準及び年棒査定基準の策定・改定、選手補強…領域はクラブによりやや異なる点もあるが、監督への評価を下すのは、どのクラブも"通常"は"クラブ"内"に設置された強化部門の業務領域だ。時に、何者かの一声でそれがまかり通らないこともあるが…。
よって強化部門の要職に就く人物は、監督人事に対しての影響力は大きい。
だから、監督を評価する人間は監督としての能力を有さずとも、監督を評価できるだけの能力は必須である。
つまりは、指導理論が乏しかったり、実際にトレーニングで落とし込みするのは不得手であっても、クラブの目指すサッカー像に対して現監督が効果的に働いているのか、指導内容について理解していなければ適切な判断は下せない。また、適切な後任候補の選定も困難を極める。
クラブがどういうサッカーをするかという戦略の構築と理解と、戦略に合う監督を目利きする力、その両方が要る。
しかし京都のこれまでの責任者はその資格を有していたと言えるだろうか…?
また、現体制の中山氏・山田氏は、スクールとアンダーカテゴリーでのコーチでしか指導経験は有しておらず、そんな京都の強化部門しか経験していない。 安藤氏に至っては引退から間もなく、指導経験もない。
たしかB級ライセンスくらい迄は現役選手でも取れなくないので保持していたかと思うが、各クラブの底上げと質の担保の為に、規制緩和だけでなく箇所によっては要求を厳格化してきているJリーグでは、今季よりクラブライセンス制度にて(強化部門責任者の総称として)TDのA級ライセンス保持を基準(但しB等級)として定めた。
適切な判断を下すには、その為の知識と経験が必要であることはやはり自明の理だ。
安藤氏は強化部門と事業部門を繋ぐ架け橋役には適任の人材になれると個人的には思っている。 しかし、強化部門の責任者としてタスクをいきなり任せるのはあまりにも酷すぎる。それ相応の経験を積ませる親心も無しに、巣立ちを求めるのは無責任だ。 監督を評価する前に、監督を評価する人物を、評価する必要がある。
以上がその①に対する個人的な意見とその論拠の一部である。 その②についてはまだ自分の中で反芻が終わっていないので、早くまとめきりたいと思っている。
しかし一言だけ添えておくと、ホーム最終戦での伊藤社長による続投要請発言が全てを表している。
「今、京都中の思いをしっかりと受けて、これを形に変えて、サッカーを進化させていただけるのは、私は曺監督しか、いらっしゃらないと言う風に思っております。これまで2年戦っていただきました。私はどんどん進化していると思ってます。京都の夢を乗せて、本当に曺監督にこれからも私はしっかりと預けたいと云う風に思っております。」
この発言は曺監督に京都のサッカースタイル構築を一任するマインドの表れであると言え、厳しく言えば思考停止であり、責任放棄でしかない。
強化部門の責任者ではないが、クラブの代表が公の場でこの様なメッセージを発信する意味合いは極めて重大である。
曺貴裁のサッカーこそが京都のサッカーであり、京都のサッカーと曺貴裁のサッカーである。と発している事になるのだが、果たして彼がクラブを去る際はどうするのだろうか。彼が居なくなれば、また新たなサッカー探しの旅に出るのだろうか……?
最後に
7年前、サンガバリューを定めた際に、京都が真っ先に狙った人物こそが曺貴裁その人だ。 一見芯が無いように見えて、実は芯はあるのが京都。
湘南曹監督が続投表明 他チームから破格条件も - J1 : 日刊スポーツ
特に京都は稲盛和夫名誉会長が直接思いを伝え、条件も破格だった。それでも湘南残留を決めた経緯に「自分も考えた。湘南が一番、僕という人間を必要としてくれた。それがすべての理由」と明かした
しかし、その芯は細い。極めて細い。時に途絶えてしまうこともあった様に。
京セラフィロソフィーは『哲学』であって、戦略や戦術ではない。
心を『ベース』に経営するのであって、土台の上に様々な事業戦略と戦術が用いられて、今日の一大コングロマリット、京セラグループが形成されたのである。
福岡慎平らが、まだユース年代で輝いていた頃、特にJユースカップ優勝前後に「スーパーハードワーク」なる単語が独り歩きした際にも述べたが、ハードワークは基礎部分の、それも一部にしか過ぎない。
家を建てるには柱も壁も屋根も要る。 基礎の鉄筋だけを見て一喜一憂しても意味がない。コンクリートを注がなければならないし、柱を立てていかなければならない。
サッカーは得点の多い少ないを競うスポーツである。相手より多く走ったかどうかや、ボールをより支配できたかを競うスポーツではない。履き違えてはならない。
今季の京都は、ピッチ上の現象から判断すると、昨年以上にサッカーの原理原則や相手の存在を軽視し過ぎている様に見える。
「秩序のあるカオス」と言う理論は、チームのノビシロ・余白を意図的に残して、ライフサイクルに於ける衰退期の到来を先延ばしする意義があると思っている。だから曺貴裁監督が戦略として掲げる事は理解ができる。賛同できる。また運動量をベースに掻き乱すことで、戦力差・資金力の差をひっくり返そうというのも戦略の考え方として頷けるものはある。
しかし、現状は何度でも言うが「秩序がない只のカオス」状態。
ボールはうまく前に運べない。得点を奪う術もない。それはプレーの優先事項こそ整理されているが、選手に与えられる裁量が大きいが為に、ゴールへのルートを共有し実行できないからだ。
カオスの中で突如こぼれてきたボールを決めきれない。あるいは小気味良くパスを繋いでも、それはPAの3辺の外の事であり、相手の最後のブロックを剥がしてシュートまで行き着きつく事できない。術が無いからサイドからクロスを千本ノックのように挙げるが、点と点を合わせるのは至難の技。ましてや高さで相手DFに勝るアタッカーは山崎ひとりくらい。
「守りは堅いのだから、得点が増えれば成績は向上する」「押せ押せの内に点が入れば」。。。
果たして本当だろうか?それはサッカーという競技の本質と、このチームの特性を見誤っているのでは?
一見押せ押せの展開を演じている様子に見えて、得点が奪えず勝ち切れないのは偶然ではない。確率は低くとも、偶然であろうとも、試行回数を積み重ねれば必然になるという思想の下プレーするチームだからこそ起こる必然の現象である。そしてサッカーは、野球の様に攻撃と守備のターンがセパレートされた競技ではない。
ジャンケンで例えるならば、グーを出して、同じグーの土俵に相手を引き摺り込み、上回る。でもチョキとパーも出せる様にはするよ。これが曺監督の提唱する理論なのだが、現実はグーで殴るだけでチョキとパーは持ち合わせているとは言えない。レベルの上がったJ1ではグーの強さも通用する箇所としない箇所がある。
曺貴裁監督が明かす「京都スタイル」。ボールを、下げるな!ゴールへ向かう「4-3-3プラス1」 | footballista | フットボリスタ
選手に何を提示するかというシステム的なことで言うと、秩序は絶対作ります。だけど、そこに“カオス”が生まれないと、もう勝てないと思ったんです。『ここに相手がきた時はこうして、こう埋めて、クロスはこう守れ』と言うだけだと、言葉って体重を後ろに下げるんです。だから、どうしてもカウンターの要素が強いチームになってしまう。でも、流大はカウンターもありましたけど、それが強いチームではなくて。今の京都もカウンターは持っているけど、それが強い印象はないはずです。ボール保持と、ボール非保持の時の、両方に刀があるというか。僕は自分もそうありたい。そのやり方しかできない、その言葉しか使わない自分じゃなくて、もう一方の刀をちゃんと持っていないと、今の時代のサッカーで選手たちを伸ばせないと思っている
J2 42試合で59得点、J1 34試合で30得点のみのチームが、得点までのプロセスに問題がない訳がないのである。(※選手たちが下を向かない様にマネジメントの1つとして虚勢を張っている可能性はあるが)
ジャンケンの必勝法は後出し。
相手の出し手を見て、勝てる手を出す。相手に先に手を出させて、後から勝てる手を出す。
しかし、その柔軟性は京都にはない。でも京都のサッカーとは、もはや曺貴裁のサッカーであり、これ以上はない。
さて、今回はクラブ側からの視点で、曺貴裁京都について振り返ってみた。
あくまでプロローグであり、次回はよりチームに焦点を置いて、戦術的な要素も含め曺貴裁京都のサッカーそのものについて考えてみたい。
その際のキーワードは「成長」である。
See you soon…!